塩飽諸島の本島を歩く、その3、塩飽勤番所
本島での一番の見どころは何と言っても勤番所です。
今から20年以上も前に初めて本島を訪ねたのは、実をいうと子供の夏休みの自由研究の題材にと訪れたのです。そのときは笠島の町並みはまだ整備されてなくて見学しなかったのですが、勤番所には最初に来たように思います。
勤番所の門を正面から見たものです。
ここ塩飽諸島は古くから自治が認められていたのです。
塩飽の水夫たちは操船術にたけていたため、秀吉の朝鮮出兵の時などに海上輸送に功労があったことから塩飽の島々に領地を与えられ、大名に対して「人名」と称したそうです。
その人名の中から「年寄」が選ばれ、島の自治を行ったわけです。
奥に見えているのが咸臨丸の模型です。
江戸時代ではほかでは見ることができなかった船方による自治領なんですね。
咸臨丸の模型が置かれているのは、この船に塩飽の水夫が30人も乗り込んでいたからです。
ピンボケですが、咸臨丸に乗り込んだ水夫がサンフランシスコで写した写真です。
腰には脇差を差してします。
日本海軍の黎明期についての説明ですが、最初はオランダ海軍から学んだようです。
しかし、やがてイギリス海軍を範とするようになってきたことは私が読んでいる最中の「坂の上の雲」を読むとよくわかります。
それにしても、日本海軍の発展にも塩飽の人たちの活躍があったわけですね。
一輪生けられていた黄水仙が何とも良いですね。
さすがに島は暖かいようで、あちこちで黄水仙を見かけましたが、我が家の黄水仙はまだまだ咲いていません。
keitann様 こんにちは
ここでは秀吉の時代、徳川の時代の珍しい統治形態を拝見しました。
そして例の咸臨丸についても彼らがアメリカから持ち帰って品々を拝見して俄かに現実味が出てきました。
勤番所の役割と意味も理解出来ました。
小生の中では、名も無い島が俄然存在感を増して来ました。
投稿: ぶちょうほう | 2012-02-03 19:43
ぶちょうほう様、こんばんは。
この本島に秀吉や信長の朱印状が伝わることは、同じ県内で育った私も、この市に嫁いで来るまでは知りませんでした。
塩飽水軍が村上水軍とともに、操船術に長けていたことも、30年ほど前に知ったことです。
徳川の時代からこの地が自治領だったというのも、統治形態から見るとずいぶん珍しいことだったようです。
投稿: keitann | 2012-02-04 00:23