吉備路散策
孫の手術が急遽中止になってしまったのですが、あまりに急すぎて、家に電話してみても主人はすでに岡山行きの電車に乗ってしまったようで連絡が取れません。
仕方なく、そのまま岡山まで来てもらったのですが、そのまま直ぐに香川に戻るのも勿体ないので、急遽空いた時間で吉備路ドライブと相成りました。
吉備路と言えば、直ぐに思い浮かぶのが↑の吉備路風土記の丘に建つ備中国分寺の五重塔でしょうか。
良く、この五重塔を背景にレンゲ畑の中を自転車で走る光景などがポスターなどで見られると思います。
この日のドライブでは実は最後に立ち寄ったのが、こちらの備中国分寺でした。たまたま足守の町から一般道で児島まで帰ろうとして時に通りがかったのでした。
その前に立ち寄った足守の町は、その日のドライブで一番最初に訪れた最上稲荷で周辺の見どころとして地図にあったので、たまたま訪れたのですが、実に良い町でした。
普通は↑のようなお屋敷を見学する際には有料のことが多いですが、岡山市が管理していて、駐車場も見学も無料です。
たまたま、桃の節句が近いということで、お雛様があちこちに展示してありました。
足守の古い商家に展示されていた雛の数々です。
床の間に飾られていたのは、かなり古そうな男雛と女雛でした。
商家の庭に咲いていた一輪の紅梅です。
岡山の山間部は標高は低いですが、内陸とあってか、梅の開花もずいぶん遅いようです。
2月上旬には香川の栗林公園や我が家周辺でも梅が咲き始めたというのに、2月下旬の岡山ではあまり梅の開花を見なかったように思います。
飛騨高山などのように観光地化していなくて、落ち着いた家並みと静かな雰囲気が好感が持てました。
岡山にはしょっちゅう行っているというのに、足守と言う地名すら、訪れるまで聞いたこともなかったのですが、2万石あまりの小さな藩のあった陣屋町ということです。
江戸時代中期に建てられたという家老屋敷です。
たまたま、ガイドさんが案内してくださったおかげで、いろいろ勉強になりました。
初代藩主は豊臣秀吉の正室だったねねの実兄である木下家定だそうです。
関ヶ原の戦いでは木下家定は、東軍にも西軍につかず、ねねを守るという立場を取ったため、お家取りつぶしにならずに済んだとか・・・。
上座敷にかけられた書は十一代藩主によるものだそうです。
↑屋敷内には逆さ柱のあるわずか2畳の部屋があり、いざというときの「自刃のための部屋」ではないかとガイドさんが仰ってました。
その藩主の住まいであった陣屋の建物は今はなく、公園となっていました、
陣屋のすぐ背後は標高の低い山になっています。
センダンの木がまだ実をつけたままでした。
陣屋跡地の並びには、大名庭園の近水園があります。
観光客もほとんどいない静かなお庭でしたが、桜の頃には賑わうのかもしれません。
足守川にかかった橋からの眺めです。
足守川はホタルが見られる川としても有名なのだそうです。
橋を渡ってすぐの場所が、緒方洪庵の生誕地です。
緒方洪庵は日本医学の祖と言われ、大阪に適塾を開き、様々な人材を育成したそうです。
足守に先だって訪れたのは「水攻め」で有名な備中高松城跡です。
豊臣秀吉の水攻めは、日本史の苦手な私でもその事実ぐらいは知っていましたが、細かいところまで知ることが出来て良かったです。
平野のど真ん中に築かれた平城だったということにまず驚きましたが、今までお城と言うと小高い山に築かれたものしか見たことがないと思っていました。調べてみると二条城、名古屋城、駿府城などが平城だそうですが、二条城以外はまだ実物を見たことがありませんでした。
この高松城の周囲に先ほどの足守川から水を引き込み、水攻めにしたわけですが、多くの人員を動員してわずか12日間で高松城の周囲に堤防を築いたとありました。
また、水攻め決行の直前に信長が本能寺の変で亡くなるなどしたのですが、秀吉はそれを知らない城主の清水宗治に城兵の命と引き換えに切腹を迫るなど、策略を巡らせたようです。
高松城の周囲はもともと沼地だったそうですが、400年を経て沼を復元したところ、自然にハスが生えてきたそうです。
昔、高松城があった周辺は公園として整備されていますが、↑のように、400年前のハスが見事に育っていました。
今は何とものどかな田園地帯のこの地に、400年以上前、そのような血なまぐさい歴史が秘められていようとは、にわかに信じがたいほどでした。
岡山はいつでも直ぐに行ける身近な地ですが、なかなか見どころの多い場所だと再認識させてくれたドライブとなりました。
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