今度こそ二ツ岳へ、その2、シコクチャルメルソウ
ほとんどアップダウンのない道は山登りと言うよりもハイキングと言ったほうがぴったりの道です。
地図を見ると峨蔵越えまではほとんどアップダウウウがない道を歩くようで、これは私の推測ですが、瀬戸内側から別子方面へと抜ける古い道ではなかったのでしょうか。生活道だったとすれば、急峻な道は荷物を持ってはとても歩けないので、誰でもが楽に歩けるようみちになっているのでしょう。
ネット検索したらこんな文章が出てきました。
「わたしの住んでいる肉淵(にくぶち)から標高1,266mの峨蔵越(がぞうごえ)(図表3-1-16参照)を越えて宇摩郡土居町の入野(旧土居村入野)に通じる道があります。この道は瀬戸内側へ出る近道として以前はよく利用されていました。アズキなどを背負ってこの峠を越え、土居町の浦山鉱山(伊予鉱山。現在閉山)の集落で米と交換していたことを覚えています。別子山村では米があまりとれません。わたしの子供のころは白米の御飯などめったに食べられない。ほとんど麦といってよいような麦飯かトウキビ飯です。ですから鉱山(筏津坑)に勤めている人の家がうらやましくてしかたがありませんでした。学校でも筏津の方の子供は服装もよく、弁当は白米の御飯。わたしらは麦飯です。よく『麦飯食い』などと言われてからかわれました。
また、この辺りでは養蚕もやっており、繭(まゆ)を土居の方へ出荷していましたので、その折もこの道を利用していました。繭は検査が厳しかったので、各自が運んでいました。わたしも繭を背負ってみんなといっしょに峨蔵越を通ったものです。わたしらの足ではとてもその日のうちに往復することはできず二日がかりでした。わたしの娘時代の経験です。
一方、新居浜市へ出るには標高1,294mの銅山越を通らなければなりませんでしたが、その銅山越の下に銅山のトンネル(*23)(第一通洞)があり、人道として使用されていて、大変便利だったので、大勢の人が通っていました。しかし、トンネルは夕方の4時か5時ころになると閉まるので、閉められたら峰(銅山越)を越えなければなりませんでした。わたしも娘のころまちにあこがれて、このトンネルを通ってよく新居浜へ行きました。もちろんトンネルを利用しても新居浜のまちまではかなり距離がありました。」
山歩きをしていると、往々にしてその土地の歴史を感じることがありますね。
↑ツクバネソウの群落が出てきましたが、花はまだ一つも咲いてないのです。
ですが、歩いていればそのうちに咲いている花も見ることでしょう。
トラバースしている道の上の方を見上げる、と新緑の色が目に飛び込んできます。
まだ綺麗に咲いているタチネコノメソウもありました。
いつもだと4月に県内の山地で見ているマルバコンロンソウですが、今年は5月に愛媛の山で見ることになりました。
何株かで咲いているマルバコンロンソウ・・。
これを撮影していたら、後ろから5人ほどのグループの方が通られたので、先に行っていただきました。
そのグループの最後尾の方に花の名前を教えてほしいとプリントアウトした花画像を見せられましたが、なんと岡山森林公園で撮影した画像だそうです。花はハウチワカエデの花とツルカノコソウの出始めたばかりの画像のようでした。行ったことのある場所なので、花の名前がわかって良かったです(^_^;
その後もご夫婦連れの方が来られたので、先に行っていただきました。
クサアジサイの花芽かな??
これは先ほども見たシコクミヤマスミレもしくはヒナスミレの葉ですね。
行く手に尾根が見えてきて、どうもあの尾根が二ツ岳の尾根のようです。
峨蔵越えからの登りは急らしいです。
目を凝らすとピンクが見えていて、あれがアケボノかな?
3枚葉のツクバネソウが咲いているのが出てきました。
そして、シコクチャルメルソウが次第に多くなってきました。
道は相変わらず平坦な道で、ここがこれだけ楽と言うことは、後の登りがそれだけ急と言うことですね。今は楽なだけに後が怖い・・・
水の流れの傍で咲いているシコクチャルメルソウです。
眼下には沢の流れが見えています。
Rさんの撮影風景ですが、周囲の緑がとても良いですね。
あれ?
ヤマエンゴサクに種ザヤが出来ています。
初めて見ました。
こちらはフイリシハイスミレの葉です。
花後のスミレの葉は大きくなっていてびっくりしますね。
これはアケボノツツジの幼木です。
そろそろアケボノが出てくるようです。
アサマリンドウの芽も大きく育っていました。
keitann様 こんにちは
この記事では、掲載引用文の記述に興味が湧き、地図で追いながら文章を解釈していきました。
どのくらい昔のことなのでしょうね。女の人でも物々交換の小豆を背負って山越えして行ったのですね。
肉淵から峨蔵越まで6kmあり、高度差は700m、そして峨蔵越から土居町浦山までは8kmで、高度差1200弱を下ります。
合計距離14kmで高度差合計1900mを荷物担いで歩く場合は、確かに日帰り困難でしょうね。
小豆とお米の交換レートは、小豆側が不利でしょうから、担ぐ小豆もさぞや重かったことでしょう。
また筏津の子供に肉淵の子が「麦飯食い」とからかわれた・・・とありますが、地図の上では筏津のほうが肉淵よりも余程山奥で、僻地なのですね。
銅山景気によって、文明の逆転現象となったのでしょうね。
ところで、娘さんが新居浜に出るのに山越え峠越えして行ったとありますが、約6里の道のりがありました。
そうなると日帰りはもちろん困難ですから、泊りがけで出かけたのでしょうね。
「よく行った」とありますので、どういう(旅行の)形態であったのかそれも興味をそそられました。
ここへ来て、さすがに花の登場密度は少なめになっていますね。
投稿: ぶちょうほう | 2015-05-25 11:17
ぶちょうほう様、こんばんは。
山歩きをしていると、〇〇越と言う峠道を良く通りますが、峨蔵越周辺は人家がないにも
関わらず、峨蔵越えへの登山口まで舗装された車道でした。
それに傾斜の緩やかなずいぶんこなれた道だったので、この道は昔から良く歩かれていた
生活道だったのだろうと推測しながら歩きました。
普通はそういった古い道は荒れていくことが多いようですが、峨蔵越の場合はたまたま
二ツ岳登山のための道として歩かれているので、荒れずに残っているのだと思います。
宮尾登美子さんの「天涯の花」にも書かれていますが、昔の人は20キロやそこいらは簡単に
歩いたようですね。
小豆やお米を担いで歩くのに、急な坂道ではとても歩けないでしょうし、歩きやすい道を
作ったものだと感心しました。
筏津というのは肉淵と比べると銅山関係者の家が多かったのだろうと思います。
寒村と言う雰囲気の肉淵と違い、住友の従業員ですから羽振りも良かったのではないでしょうか。
新居浜へ出かけた娘さんはたぶん新居浜に住んでいる親類かどこかに泊りがけで行かれた
のだろうと思います。
愛媛はお隣の県ですし、山登りで別子方面へはしょっちゅう行っていても、その地の歴史
などは調べて見なければわからないことも多いですね。
投稿: keitann | 2015-05-25 22:45