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2018-03-05

岡山の佐伯天神山に登る、その3、本丸へ

桜の馬場を行きすぎたら、大きなカゴノキが見えてきました。

カゴノキは四国の里山でもときどき見かけますが、こんなに大きなカゴノキは今まで見たことがありません。

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カゴノキの大木の後ろから歩いてくるRさん。

おまけにこのカゴノキは株立ちです。樹高も10mは超えていて、樹齢何年なのか気になりました、

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カゴノキを行きすぎると、そこは「長屋の段」です。

倉庫まであったんですね。

行けども行けども、山城の跡が途切れません。

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今度は「二の丸」が出てきました。

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そして、とうとう本丸跡までやってきました。

本丸跡には10時19分の到着です。

麓から眺めたときに、一見山頂らしく見えていたのはこの本丸跡だったようです。大きな石碑があって石碑には「浦上遠江守宗景の城址」とありました。

まさに一代限りのお城だったんですね。

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本丸跡には天神山城鳥瞰図がありました。

この鳥瞰図を眺めて、あらためて佐伯天神の山城の規模の大きさに驚きました。

こんな風に尾根筋に曲輪を連ねた山城を連郭式山城と呼ぶようです。

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本丸からさらに進むと「天津社」という神社までありました。

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そして、ここから北方向を眺めると、谷を隔てたちょうど向かい側に山が見えていて、その山の山腹に棚田が見えています。耕して天に至るとは良く聞きますが、まさに稜線のちょっと下まで耕されていてすごいです。

そういえば登る前に岡山のYさんが「佐伯天神には月夜に登ると棚田が美しいそうよ」と仰ってましたが、この棚田のことのようです。棚田の水面に月が映って素晴らしいんだそうです。

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皆、棚田の素晴らしさに驚いて写真を撮ります。

惜しむらくはこの日の霞がかかったような空でした。

視界がはっきりした日だったら、どんなにか素晴らしいでしょう。

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これから進む東の方角を眺めると、もう一つ山が見えています。

Yさんに尋ねると、「あれが天神山の山頂よ」と教えてくださいました。

あらまぁ、本丸があるところからすぐのところが山頂だとばかり思い込んでいたのですが、勘違いでしたね。山頂に行くには、どうやらいったん下るようです。

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そして、本丸跡南側は侍屋敷方面への道の分岐になっています。

下山にはこのルートを使う予定なのです。

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本丸を過ぎると、今度は「飛騨の丸」というのがあって宗景の重臣であった明石飛騨守景親の屋敷跡のようです。

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飛騨の丸の東側は野面積の石垣になっていました。

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その東には「馬屋の段」

山の上なのに下界と変わらないほどの施設があったんですね。

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本丸から後は道は下り道になっています。

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そして南櫓を通過します。

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南櫓から先は完全に下り坂となっていました。

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振り返ると、階段になった下り道を下りてくるPさん。

そして、この場所が田土方面への下り道の分岐になっていました。

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田土方面というのは先ほど眺めた棚田のある集落のことらしいです。

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もう山城の遺跡も終わったのかと思っていたら「亀の甲」というのが出てきました。

敵に石を落とすための石置き場のようです。

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亀の甲を皆で撮影します。

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道のほうはこの辺りから普通の山道のようになりました。

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下っていたと思ったら、今度は登り返しです。

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そして「石門」と書かれた遺跡がありました。

天神山城を防衛するための門だそうです。

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ここから先に0.3キロ進むと「太鼓の丸」があるようです。

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道は次第に登り坂となってきました。

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後から歩いてくるPさんが何かを見つけたようです。

何かと思ったら「上の石門」とありました。

前ばかり向いて歩いていたので、ちっとも気づきませんでした。

コメント

こんにちは。大きなカゴノキですね。当方でも1ヶ所だけ見られますが、高木でまだその花や果実を見たことがありません。長年の宿題になっています。

多摩NTの住人様、こんばんは。
カゴノキは南方系の木なのか、四国ではちょくちょく見かけます。
私の実家周辺の里山にも多いので、一度ぐらい花を見てお叶えればと思うのですが
今まで花は見に行ったことがないです。
今年は花期を調べて行ってみようかな?

keitann様 こんにちは
山の城についていつも感じることなんですが、人里から隔離されたこういう場所にお城を作ったとしても、領地を守る役には立たないのではないのでしょうかね。

昔の人は他者を責め滅ぼすという攻撃的なことよりも、内向的に自分の周りを固めてじっと守るということに力点を置いていたのでしょうか。

そして、城の存在価値というものは、戦に敗れた後に使われなくなってしまうことによって露見するのでしょうか。
沢山の人的資源と物資を投入して、斯くも役に立たないものを作るものだ・・・といつも不思議に思います。

山歩きの中で、こういった遺跡に出逢うと、刺激が強くて、山行の趣きが一変しますね。

ぶちょうほう様、こんばんは。
コメントをありがとうございます。

四国の山を歩いていても思うのですが、里山には戦国時代やそれ以前にも山城があった山が
多いですね。
石鎚など高くて急峻な山にはとても山城は作れないし、作っても存在価値がありませんが
標高300mぐらいの里山だと、敵が攻め入ってくるのを見つけやすいし、外から攻められて
も上から石を落としたりして守りやすかったようです。
特に岡山辺りは戦国時代にたくさんの山城があったようで、岡山県には大きな城だけでも
岡山城、津山城、備中松山城と3つものお城があります。
香川の屋島に屋島の城という紀元7世紀ごろの山城の跡があって、これは瀬戸内海を
攻め入ってくる朝鮮軍を見張っていたそうです。

確かに私たちの時代の人間から見れば、よくもまあ、領民の力を使ってこんなものを
作り上げたと感心するやらあきれるやらですね。
ただの山歩きと違い、人間臭さが残っているので、それが面白いといえば面白く、人間の
はかなさを感じるといえば感じます。

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