愛媛の屋根付橋を見に行く、その3、ヒガンバナと御幸の橋
川幅はわずか7,8mというところですが、なぜ、橋に屋根をつけるようになったかというと、苦労してかけた橋を少しでも長持ちさせるために屋根をつけたのだとか、屋根をつけることによって、農作物を置いておく倉庫代わりのように使うためなどという理由があるようです。
橋に佇むモデルはやはり男の人よりは女性のほうが絵になりますね。
友人のNさんに少しだけモデルになってもらいました。(^_^;
橋の上には椅子が1つ置かれてあって、ご近所の人が涼みにやってくるのかも知れません。
こんなに早くから咲くなんてと、驚きました。
付近には栗畑も多くて、まだイガの青い栗がたくさん木になっています。
愛媛って、栗の木が多いのですよ。
上を見上げると、一段と高くなった場所に、桐の木の家紋が入った蔵が見えました。
途中で、いくつかの橋を見ましたが、ともかく、一番奥にある御幸の端橋を先に見ておこうということになりました。
それによると最初に掛けられたのは1773年のようです。
今の橋は明治時代にに流された橋をわずか一ヵ月ほどで架け替えられたもののようですね。
この辺りの地区の人が総出だったのでしょうね。
神社の近くの岩壁には、たくさんのイワタバコがあって、花はすでに終盤ですが、それでもあちこちで咲いています。
友人のNさんが喜んだことでした。
イワタバコは私が思うには南方系の植物のようで、寒い地方では見ることができないようですから・・。
これも春に読んだ「街道を行く」の中で丁寧に書かれてあったので、興味があったのですが、その場所に出くわすとは・・・。
河辺地区のあちこちにこの「龍馬脱藩の道」と記された立て札をこの後も、見ることになりました。
この地区の人たちの丁寧な暮らしぶりが伺えるような光景でした。
帰りは内子方面経由で帰ることにしましたので、途中までは再び同じ道を走ります。
私がいちばん印象的に感じたのはこの帯江橋でした。
軽トラックがこのときはまるで橋を車庫のようにして、停めてありました。
橋の正面から見た様子です。
橋の中央部分にはモクセイのテーブルと椅子が置かれてあって、夏場の日中はここに座って川を眺めながらお茶を飲むお年寄りを想像しました。
この近くに住んでいたら、文庫本を一冊とコーヒーの入ったポットを持参して、日がな一日、ゆったりと過ごしてみたい・・。
また少し下ると、こちらは屋根が茅葺屋根になっているふれあい橋がかかっていました。
橋の作りも優雅なものでした。
同じ屋根付橋でも一つ一つ個性があって、実用的なものから美しいものまで様々です。
大洲市河辺地区と内子の二箇所に、こんな屋根付橋が全部で10本ほどもあるようです。
まだまだ知る人ぞ知るという存在で、わざわざ見に来る人は少ないので、静かな橋めぐりが楽しめます。
なんだか信じられないような光景です。
1773年? (年表を見たら、徳川家治(10代)の時代でした!!)
橋を大切に思って? なるほど、川向こうへ行くのは大変だったんですね。
苔むした茅葺き屋根、中央部が広くなって。ただ単に橋を守ることから橋を楽しむところまで発展したのでしょうか?
長い橋になると途中で行列が待避出来るように広くしたのでしょうか?
たとえば、武士の行列が通るときとか?
それとも庶民が憩いの場としても利用としたとか?
いろんな場面を想像してしまいます。
この地方に多いということは、この地方をおさめていた人の裁量がすばらしかったということでしょうか?
投稿: プルメリア | 2009-09-09 00:15
プルメリアさん、こんにちは。
安永という時代を調べたら、平賀源内や与謝蕪村、田沼意次などという人たちが活躍した
時代なんですね。江戸幕府がまだまだ安定していた頃でしょうか。
橋を架けると言うのは今でも大変な工事ですから、当時はさぞ大変なことだったでしょうね。
仙台の友人が言うには東北のほうでは見たことがないそうです。
あちらはそもそも雪が積もるので、屋根に相当な負荷がかかりますから、無理なのでしょう。
してみると、南国に多いだろうということが予想されますね。
金比羅さんにも「鞘端」という屋根付橋がかかっていますが、四国は大体に置いて沈下橋が
多いように思います。
でも、庶民のための橋にこうした屋根をかけるというのは、橋を大事に思う気持ちの表れでしょうね。
あと、収穫した穀類などを一時的に保管する倉庫の役目もしていたと、どこかで読みました。
椅子とテーブルを置いてある橋の光景はのんびりとしていて、どこか浮世離れしていましたが
眠ったようなこの地域(村)にはぴったりでした。
司馬さんの本にも、この地方のことはいろいろと書かれていましたが、土佐との比較が私には
興味深かったです。
投稿: keitann | 2009-09-09 14:52