瀬戸内の島歩き、その1、須田港から粟島へ
1月のどこかで、女性ばかりの山仲間と野草仲間で、新年会を兼ねて山歩きしましょうという話が新年早々から持ち上がっていました。
去年も私のフィールドとも言うべき天霧山方面にご案内したのですが、今回は雪の山も良いし、島も良いな~と思っていました。
他の3人の方に意見をお聞きしたら、島でいいですとのこと。日時のほうは1月の第4週末のお天気の良い日ということにしました。
何度か携帯メールをやり取りした後、私たち4人での初歩きは庄内半島から船で15分の粟島を歩くことになりました。
↑画像は24日に登った、粟島の最高峰(といっても220m)の城山(じょうのやま)から眺めた粟島の様子です。はるか向こうには瀬戸大橋も見えています。
当日から遡ること3~4日前の天気予報では24日の日曜日が気温も高めだし、お天気もさそうなので24日に決行と決めました。
島歩きは船の便によって行程が左右されるのですが、前もって調べていただいたところ、行きは旧詫間町の須田港を10時45分発の船が良いだろうということになりました。帰りは当初、3時20分粟島発の船に乗る予定でした。
ところが、結果的には粟島の港で船の時刻を確認したところ、5時過ぎの船があったので、それで帰ってきたのですが、予定変更があったおかげで、いろいろと思わぬハプニングもありました(^_^;
当日は私が高松のreikoさんを坂出駅まで迎えに行き、野草友達のRさんが山友達のTさんを迎えに行って下さる手はずです。そんなややこしいことをしたのはなぜかというと、夜に新年会をすることになっていたからです。
我が家に10時に集合した後、私の運転で須田港を目指して出発します。庄内半島は私の生まれ育った町に近いせいもあって、勝手はよくわかっています。
港に待っていた船は、昔も小さい船でしたが、今もやはり小さな定期船です。実はこの粟島、高校時代には毎夏のように、バレー部の仲間と泳ぎに来ていた島です。しかも、バレーの試合が8月半ばにあるので、毎年、お盆も過ぎた8月20日ごろに泳ぎに来てはクラゲに刺されながら泳いだ思い出の島です。
そして5~6年前の冬には、その後病気で亡くなった叔母とともに牡蠣料理を食べに来たこともあります。
ここ3~4年は直ぐ近くの庄内半島の紫雲出山から眺めるだけとなっていた粟島です。
画像は桜の季節の粟島です。
予定通り10時45分の船に乗り込みます。天気は申し分なく真っ青な空に真っ青な海、瀬戸内海のよさがいちばんよくわかる一日になりそうです。
船の上からの眺めを撮影したりしていると、あっという間に島に着きます。島到着は11時です。ところが、このとき、カメラにFCカードが入ってなくて、城山の登りの途中でようやく気付いたお馬鹿なワタシ・・・(^_^;
おかげで、途中までの写真はパーですが、幸い、いつも予備のFCカードをカメラバッグに入れてあるので、途中からはちゃんと撮影できました。
登山口はルポール粟島という宿泊施設の傍にあるようです。
これがそのルポール粟島です。
ルポール粟島の直ぐ横には旧粟島海員学校、今は粟島海洋記念館があって、その敷地から、今から目指す城山が見えています。
山頂には展望台らしき建物もはっきりと見えます。
なお、この画像は帰りに撮影したものです。
ここでトイレをお借りした後、登山口を歩き始めたのは11時25分です。この時刻は山友達のreikoさんの記録を参照させていただきました。
標高わずか222mの山ですが、道はきちんと整備されており、道標なども1合目ごとに立っていて、迷う心配はまったくありません。
4合目まで登って、カメラにメモリーカードが入ってないことに気付いたので、ここからようやく撮影開始です(^_^;
最近、登り始めはどうも膝が少し痛いことが多いので、私はこのときは最後尾を歩かせてもらっています。
テイカカズラの葉が紅葉しているのが見事です。
先ずは、私が普段良く登っている天霧山などが見えます。
コバノタツナミは株はたくさん見ましたが、咲いていたのは1株だけです。
4月半ばにはきっと、花盛りになることでしょう。
そして島の東に聳えている紫谷山(しっきゃ)が見えてきました。
この山はどういう訳か禿山みたいな山で、不思議に思っていたら、2002年に山火事で木が焼けてしまったようです。
山頂周辺は大きな岩がごろごろしています。
まさか、この山にも登ることになろうとはこの時点では、全然思ってもいませんでしたが・・。
島は暖かいので、カクレミノや、クロガネモチなど常緑樹が多いです。
ヤブツバキもところどころで見かけますが、大きな木の頭頂部は日当たりが良いからか、花つきが見事です。
瀬戸内の山々は、山頂部に巨岩のある山が多いですね。
山頂直下に東屋があって、その横にはこんな説明板が立っていました。
それによるとこの城山には山城があったようですが、天正年間に長宗我部氏の侵略を受けて焼失したとあります。
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