忘年登山で初めての屋島へ、その6、冠ヶ嶽
へんろ道をそのまま下るのかと思ったら、屋島寺の前から再び遊歩道を引き返します。
まるで陽だまりハイクのような気持ち良い道を歩いていく山仲間の方たち・・・。
ものの10分も経たないうちに屋島城跡の城門までやってきました。
発見されたのは1998年と比較的新しいようです。その後も予算がなかなかつかず、復元まで時間がかかってしまったとのことです。
香川には中世の山城跡も結構あって、私が良く行く天霧山もかつては山城が築かれていました。しかし、屋島城はそれよりも700年も遡った7世紀仁築かれたのです。白村江の戦いは日本史で昔習いましたが、私が覚えているのはその後、九州などに防人が配置されたことです。防人が詠んだ歌が万葉集に収録されていて、これはかなり古い時代のことになります。
もしかしたらこの屋島城にも防人がいたのだろうか?などと考えると、気持ちははるか昔に飛んでロマンに浸れますね。
この屋島、源平の戦いだけでなく、飛鳥時代にも歴史の一端を担ったと思うと、私たちの住んでいる地に何となく誇りを覚えます。
歴史を知ってから、復元された城門を眺めると一味違います。
そして、だんだん南に歩いてきているので、高松の市街地が良く見えるようになりました。
高松駅付近の建物も良く見えています。
屋島城跡から、ほんの少し南に向かって歩くと、今度はケーブル駅の跡に出ました。
私が子供の頃、父にケーブルカーで屋島に連れてきてもらったことがありますが、4~5歳の頃のことで、記憶もおぼろですが、そのケーブルカーも2005年に廃止され、山上駅に有った最後の車両が下に下ろされたというニュースは最近聞いたように思います。
駅から、今は廃線となったケーブルの軌道跡を見てみました。
つい数か月前に摩耶山に登りケーブルカーで下った時のことが思い出されました。
六甲もドライブウエイで山頂まで行けますが、山麓に阪神間の大都会があるので、ケーブルカーもまだまだ活躍の場があるのでしょう。
小さな高松の街では、なかなかお客も集められないので、時代の流れと言えばそれまでですが・・・。
山上駅に植わっていたカエデの木にジョウビタキがとまっていました。
丁度陽射しを受けて、まだまだ綺麗なカエデの木も見られます。
そして、ケーブル駅から南に進むとそこは冠ヶ嶽への道です。
ここからは山道らしい道になります。
途中で見つけたナツハゼの木は真っ赤に紅葉していました。
ケーブル駅からほんの5分ぐらいで、冠ヶ嶽に着きました。山名表示はありませんがこの祠が山頂ということでしょう。
冠ヶ嶽から眺める牟礼の町です。
朝方眺めた阿讃の山々やクレーター五座も良く見えています。
その後は来た道を引き返すのですが、途中で岩場周辺を下るルートがあるとのこと。ガイド役のAさんは最初はここを下る予定だったようですが、時間的にも無理みたいだし、何しろ女性も多いパーティーなので、ロープ場をいきなり下るのは無理ということになりました。
そこで冠ヶ嶽から少し引き返した場所から分岐しているルートを下ることになりました。
こちらは急な下りとはいうものの、普通の道です。
岩場のすぐ下を山道が通じているんですね。
見上げるとこんな岩場です。
今にも落ちてきそうな石が見えていて、ヘルメットが欲しい気分でした(^_^;
先ほどの岩場のロープ場を下ると、この辺りに下ってくるようで、ちょうどシマカンギクがここだけ群生していました。屋島の歩きで唯一見かけたシマカンギクです。
やはりシマカンギクは日当たりのよい岩場を好むようですね。
もう少し下った場所ではリュウノウギクも少しだけ見ることができました。
下り道は特に危険な場所はありませんが、コナラなどの落ち葉で滑りやすく、木につかまりながら何とか下ります。
結局、30分足らずぐらいで、朝方眺めた屋島神社横手の踏み跡を下ってきました。
神社の屋根越しに先ほどその下を歩いてきた岩場が良く見えます。
朝もこんな写真を撮りましたね。これは下山の風景です。
朝は気づかなかった「皇族下乗」の石碑が立っていて、Aさんが説明してくださいました。
つまり、ここから先はたとえ皇族の方でも駕籠などの乗り物を下りて歩かなければいけないということのようです。神となった家康さんのほうが皇族よりえらいということ?そのあたりはちょっと良くわかりませんでしたが・・・。
朝も穏やかな晴天のもとで眺めた屋島を帰りも素晴らしい青空の下で眺めることができました。
年に一度の忘年山歩きがたまたま素晴らしい晴天に恵まれ、いろいろな歴史の舞台となってきた屋島と言う山をあらてめて知ることができ、ほんとに願ってもない日となりました。
案内してくださったAさん、そして計画を立てってくださったRさんに感謝です。
この後の恒例の山仲間の忘年会がとても楽しかったのは言うまでもありませんでした。
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