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2019-03-14

引田ひな祭りと白鳥の河津桜+東讃3座,その6、石鎚山後編

山頂で少し休憩したら、下山を始めます。

下山開始は14時58分。

P3021206

登るときに花崗土の斜面を登ってきたのですが、これは下りではずるずると滑るだろうなと思った場所です。低山と言えどもこういう滑りやすいところがあるので、ストックを持参していて正解でした。

P3021207東方面には野間池方面を眺めながら滑らないように注意して下ります。

P3021208

途中の分岐から、登ってきた道ではなく奥之院方面へと進みます。

こちらはミニ遍路コースとなっているようです。

P3021209すぐに車道に出てきました。

奥之院まではこの車道がついているので、ここまで車で来た後登るのであれば、一層お手軽登山となるようです。

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坂を少し登ると、山頂に登る際に見えていた奥之院です。

緋毛氈も見えていて、早とちりな私はてっきりお抹茶でも接待しているのかと思ったほどです。

それにしても奥之院も車で上がれるように道をつけてあって、想像していたより大きな建物です。霊芝寺というお寺はいったい、どういうお寺なんでしょう。登る際に「なんでも松平家にゆかりがあるみたい」とはPさんが言ってましたが・・・松平家と言えば、仏生山の法然寺なんじゃないの??

奥之院では屋根の工事が行われ始めたようで、費用は1500万とお寺の張り紙に書いてありました、

それは檀家が寄付するんでしょうか?

この日も工事の方たちが奥之院周辺を歩かれていました。

P3021211

上のほうにお堂があるので、それも見ましょうとPさんが言うので、坂道を上がっていくと・・・

↑もうピンクが覗いている桜の木が・・・

何という桜でしょう?

こんなに早いのはソメイヨシノではないですね。

P3021212ここでもモチツツジが咲いていました。

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坂道を登っていて、ようやく、屋根の工事が本堂の奥の建物の屋根なのだとわかりました。

すでに古い屋根瓦を外しているようです。

P3021215

上にあるお堂というのはこれですね。

P3021214求聞持堂というお堂なんですね。

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道は周回していて、奥之院へと再び下りられるようです。

先ほど蕾だった桜が嬉しいことに咲いていました。

淡いピンクの色合いで、河津桜や緋寒桜とは種類が違います。

桜の種類も多くて、全部はなかなか覚えられませんね。

P3021217

車道まで下ってくると、「登山道」と書かれた道標が・・・

Pさんが大岩があるのでそれは見ておくべきですというので、云われるままに歩きます。

P3021218登山道の入り口に、小さなスミレが咲いてました。

この日はきっとどこかでスミレが咲いてるに違いないと予想していたので、嬉しかったです。

ちょっと哀れな咲き方ですが、ナガバノタチツボスミレみたいです。

P3021220これは女の仏様?

P3021221

そして大岩が見えてきました。

なんだかよくわからない文字が刻まれています。

ここから、まっすぐ下に踏み跡らしきのがあったのでそれを下れば良かったのに、沢の向こうにもっときれいな踏み跡が見えたので、つい沢を渡ってしまいました。

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沢と言っても流れはなくて、この日は枯沢です。

とはいえ、露出した石がぐらついていて注意して渡ります。

P3021223この沢は、結局、登山口の手前で渡った枯沢ですね。

渡った後、しばらくは道らしきものがありましたが、行く手に柵が見えてきました。この柵はお寺の境内であることを示す柵なのかな?とその時は思ったのですが・・・

右手下を眺めると、先ほど渡った沢とその向こうに車道が見えています。要は車道に出れば良いので、再び沢が渡れるかどうか下まで降りて確認すると、水はやはり流れておらず、沢から車道まで登っていく踏み跡もあったので、やや強引に車道に出ます。

P3021224車道に復帰すれば、あとは車道を下るだけです。

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よく見たら何のことはない・・・やはり沢の右岸に道標がありました。

沢を渡らずに、そのまま下ってきたら良かったようです。

先ほどの大岩は「梵字岩」というそうで、あれは梵字の梵という字が刻まれていたのかな?

P3021226

後はお寺の駐車場まで下るだけと思い、歩いていたら、左手に石段が見え、その奥に鉄製の扉が・・・

これは??

P3021227石段の基部に説明板がありました。

石段の上は2代藩主松平頼常公のお墓と・・・

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9代藩主松平頼恕公のお墓もここに・・・

2代藩主の頼常はかの水戸光圀公の実子であり、高松藩の藩主は代々菩提寺法然寺に墓所があると思い込んでいた私は??なのでしたが、説明を読んで納得。

私の住む市は高松藩ではなく、京極様の管轄なので松平家については無知も良いところでしたが、これを読むことで良い勉強になりました。

P3021229「松平家」と書かれた石柱がひっそりと建っていましたが、まさかこんなところに松平家の墓所があろうとは高松在住の人でもあまり知らないのでは?と思われました。

里山歩きはいろいろな意味で、勉強になりますね。

石鎚山下山は、結局、15時42分ぐらいでした。

残る1座も何とか登れそうですね。

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