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2021-12-16

吉備中山を歩く、その4、初めて見た宮標石

石仏を眺めながら、道を辿っていくと、真っ赤に紅葉したモミジが植えられた場所に出てきました。

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吉備あたりの低山はほとんどコナラやアベマキの黄葉に覆われているのですが、ここだけ植栽のモミジの紅葉です。

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「御陵」と書かれた道標がありました。

この時は気づいてなかったのですが、御陵=中山茶臼山古墳のことだったのですね。

御陵と言えば、広島の比婆山にも御陵があります。

まぁ、天皇家の墓所ということでしょうが・・・・

ここは何方の墓所なんでしょう?

Pb209597道をたどると、行く手に石の柵が見えていて、どうやら八徳寺で昼休憩していた上を見上げた時に見えたのはこの柵だったようです。

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御陵の正面迄やってきました。

立ち入り禁止の文字がみえます。

Pb209599

看板には「宮内庁」の文字

検索してみると「古墳時代前期(4世紀頃)に築かれたと推定される全長105mの大型前方後円墳。四道将軍として大和から派遣された「吉備津彦命」の墓と伝えられ、宮内庁の管理下にある。この古墳を地域では「御陵」と呼んでいる。考古学的調査は行われていないが、墓域からは特殊器台形埴輪が採取されており古い時代の古墳である。吉備津彦命が実在したかは不明だが、南に吉備の穴海が広がり海運の要所であることから、大きな勢力を持った大首長の墓であることは間違いない。」とありました。

そして、それよりももっと興味深かったのは・・・

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御陵の正面に↑のような国境石がありました、

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この標石には「宮」の字が刻まれています。

もしかしたら、これが宮標石?

かなり以前ブログ仲間の方の記事を読んでいて宮標石というものがあるということを知りました。

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標石の東側には「備前」と書かれていて

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西側には「備中」と刻まれていました。

つまりこの標石を境として東は備前、西は備中なのです。

初めて吉備津彦神社を訪れた時に、吉備津彦神社が備前の一宮であり、そこから1キロしか離れていない場所位に備中一宮である吉備津神社があるのを不思議に思っていました。

このわずか1キロの間に国境があるのだなとはぼんやり思っていたのですが、ここがその国境だったのです。

いや~、山歩きしていると、いろいろ勉強できますね。

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↑御陵への参道?に植えられたように思えるモミジ

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紅葉迄楽しむことができました。

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案内図があったので、これからのコースをPさんと相談しました。

当初は引き返して中山山頂に行こうかとも思っていましたが、吉備津神社に行きたいので、いったん車道に下りて吉備津神社を目指すことにしました。

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踵を返して、来た道を引き返します。

車道に下りる最短の道である石段が見えましたが、石段を下りたくないので、緩やかな道を下ることにします。

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道沿いではヒメジソらしき花がまだ咲き残っていました。

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赤い実はヒヨドリジョウゴのようです。

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13時27分、山麓の車道まで下ってきました。

コメント

おはようございます。
大昔の御陵、見られましたね。ありがとうございました。

おみやさん、こんばんは。

確か、八王子には最近の御陵がありましたね。
この吉備中山のは神話の世界の御陵のようです。

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